ダウ平均の暴落を願うドル売り日記(*‘ω‘ *)

暴落を願うトレーダーの日常と相場の話。本命はドル売り(*‘ω‘ *)他にも本の紹介などできたら。

『自己信頼』という本を読んでみた(*‘ω‘ *)

読み終わったのは一週間ぐらい前だったと思うのだが、徒然日記書いていたら、こっちの感想文は後回しになってしまった(*‘ω‘ *)

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この本を知ったきっかけは『うつマッピング』という本だった。その本の中で著者が『自己信頼』を紹介していたのだ。『うつマッピング』は、私が鬱になってから、一番面白い本だったので、その著者を信じて『自己信頼』を買ってみた(*‘ω‘ *)

 

少し古風な言い回しが多いこの本。面白いか?と言えば、ニーチェに似た感じがするので、今一…としか言いようがない。

好きなのは、『自分が悪人としてしか生きられないなら、悪魔とイキロ!!』的に言っている一文だった。私はスリザリン生としてしか生きられないので、スリザリン的な自分を誇っているw

 

それでも、資本主義とは案外相性の悪い一冊ではないか?と思った。資本主義そのものはプロテスタントの台頭と共に、節約しつつ豊かな生活を目指していく勤勉な各人によって発展させられたものだ。

それに対して、『自己信頼』やニーチェの思想はキリスト教のアンチテーゼになっている。

 

私はガチガチの資本主義者だが、その反面、キリスト教が嫌いな一面もある。

 

資本主義を発展に導いた、プロテスタントの思想は好きだが、上手く説明できないが…昨今の啓発哲学のバックグラウンドを流れるキリスト教主義は嫌いなのである。

その主義を支持している人は、ポジティブに生きているつもりみたいだが、欲を捨てて、惨めな自分を見ないようにして、美辞麗句を並べたて、必死に今の自分に満足しようと歯を食いしばっているように見える。

 

ところで、自己信頼で思い浮かべるのは、やっぱり自分をいかに信じるか?だが、それが試されるのは、何か遠い目標に向かって挑戦している時だと思う。

 

『今日食べた味噌汁を美味しいと言い高級フレンチから目を瞑り、冴えない男を恋人に持ちながら優しさが素敵と言い訳して、金持ちの紳士を諦め、摩天楼での暮らしを捨ててスラムを天国と言う』…そういう目を閉じた生活をしている分には、自分への信頼が揺らぐこともないだろう。

これしかできない自分を認めるのを、自己肯定感(笑)という唾棄すべき価値基準がTwitterでは蔓延しているが、それだったら、私は摩天楼を目指しつつ、及ばぬ自分を恥じて惨めに思い、努力を重ねたい。

そういう努力する日々の中で、自分の力が全然及ばない中で、自分はこのままでいいのか?と初めて信頼は揺らぐのである。

 

その揺らいだ時に自分を信じる気持ちはすごく大事だったりする(*‘ω‘ *)

 

しかし、自分を信じる信念というのは、努力によって作られると思う。今日までこれだけの努力をできたのだから、その結果、昨日の自分よりも成長できたのだから、きっと目標までできる限りの努力を続けられる。自分には、その能力がある。そういう風に思っていくものだと思う(*‘ω‘ *)

 

『高級フレンチの味を夢見ず、今日食べられる味噌汁に感謝する』そういう生き方をしている人間が、真の自己信頼に到達できることはない。私はそう信じている。

実際、そういう惨めな人間が、溌剌とした表情と目の輝きを浮かべ、自己を信頼している例を見たことがない。

 

『自己信頼』。

自己信頼という行為そのものは大事ではあるが、ニーチェ的な生き方の先に成功はないと言える。

でも、この本は成功を求めるのではなく、自分の内にあるものを信じなさいとある。

本当に苦しい努力をしている中では、これは大事なことではあるが、普通に生活する分には、生きる必要(戦う必要)のない生活を送る上では、自分の信念がどこから来るかを自問自答する必要はないだろう。しかし、私は生活するのではなく、生きたい。苦しくても、外の世界を夢見て努力したいのである。欲望に忠実でありたいのだ。

 

内なる自分だけを信じて、外界の刺激や欲病を我慢する点、『自己信頼』は昨今の啓発哲学と同じく、キリスト教的だと言えると感じた。

私には馴染めない思想である。

 

まあ、根っからの悪党が私なのだろう。多分、これらの文章を理解できない、狂信者が多いのが今の時代だと思う。

 

その意味で、『自己信頼』の著者が述べた、悪魔に従って生きるのが私なのだろう(*‘ω‘ *)