ダウ平均の暴落を願うドル売り日記

暴落を願うトレーダーの日常と相場の話。本命はドル売り(*‘ω‘ *)他にも本の紹介などできたら。

『ファクトフルネス』読んでみた(*‘ω‘ *)

ちょっと前に、FXグループで本について博識で音楽についても色々知っていて、多分FXも勝っていて、すごく好奇心を持って生きているのだな…と感じた人物がいて、その人を見てから鬱が少し良くなった気もした(*‘ω‘ *)

苦しくても、私も好奇心を持って生きようって思えたから。元々は平均的な人よりも好奇心旺盛なタイプだったのだが、鬱になった後は何も興味を持てなくなっていた。でも、その人物を知ってからは、今まで食わず嫌いしていた娯楽にも手出ししてみようかな?と思えるようになったのだ。

私は『これからの正義の話をしよう』は話題本でも読んでいるのだが、基本的に本屋で平積みされる類の人気本はまず読まない。

でも、その人物はレアな本も読むだろうけど、話題本も読み漁るのだろうな…と感じた。

私が鬱になってもそこそこ読書ができる理由は、苦痛を我慢して努力する能力に秀でいる点と、元々読書量が多かったから癖で読んでしまうからだ(*‘ω‘ *)

だったら、まずは軽い話題本に挑戦してみようと思って、キンドルを買ってからダウンロードした本がこれになる。

 

『ファクトフルネス』(*‘ω‘ *)

 

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昨日の日記に書いた通り、ラストスパートは、カフェで一気に読んだ(*‘ω‘ *)

集中して読めたとは思うが、思い返せば、去年の今頃、カフェで中村うさぎのエッセイを読み始めた時期は集中できず、ケーキと珈琲を頂いたら、すぐにカフェを後にしていたと思う。

当時の読書体験よりも、今の読書体験の方が楽しいとは感じる。本の内容が、『ファクトフルネス』の方が好きなのかも知れない。でも、元々読書が好きで、中から沸々と湧き上がるようなやる気を持って読む人間だったので、どんな内容でも読めた。やはり、1年前読書で苦労したのは、鬱のせいだったのだろう。

 

結論から言うと、『ファクトフルネス』は、話題になる程の衝撃はなかったが、そこそこ面白く読めたと思う(*‘ω‘ *)

 

途中まで読んだ第一印象としては、行動経済学の本である、『ファスト&スロー』とすごく似ているという印象を受けた。

しかし、『ファスト&スロー』が、人間の心理的ミスは直らないので、常に失敗するものだ。統計データを正確に認識することはできない…という文体なのに対して、『ファクトフルネス』は知識をアップデートすれば、人間は統計的なミスがなくなる。どういうミスを何故するのかを説明しよう…そういう文体だった。

 

どっちが好きか?と言えば、『ファスト&スロー』だ。

 

ちなみに、鬱の立場から言えば、鬱になる前に読んだ『ファスト&スロー』ほど楽しめなかった。本が、『ファスト&スロー』の方が好きというだけなのか、鬱が完治していないところからくる『ファクトフルネス』に対する退屈さなのか…それは分からない(*‘ω‘ *)

 

『ファクトフルネス』全体を貫く信念は、世界は良くなり続けている、だから、世界に対する認識はポジティブに捉えるべきだ、というものだった。

 

でも、私は思った。ポジティブに捉えたからと言って、気持ちが明るくなるというのは嘘だ。ネガティブに捉えたからと言って、気持ちが暗くなるのも、嘘だ。

 

そもそも、人は何故貯蓄ができるのか?それは将来資金の為もあるが、何か事故等に備える為というのもある。

保険というのは、起きるはずもない事故を、大袈裟に捉えた結果人が入るものではあるが、貯蓄にもその一面はあるだろう。

 

それでも、ネガティブに捉えた人の方が貯蓄ができると思う。国の年金制度を含めて、将来は国が100%面倒を診てくれると言えるだろうか。江戸時代に比べたらマシになったかもしれない。しかし、私たちは江戸時代に向かって生きているのではない。未来に向かって生きているのだ。江戸時代が今より悪い時代だったことは慰めにならない。未来が今より良くならなければいけないのだ(*‘ω‘ *)

 

人は、江戸時代に生きた先祖を思い、彼らよりいい暮らしができるからと、今に満足するわけではない。江戸時代に生きた先祖は他人である。

今日生きている我々が明日、今日よりいい暮らしができるか?が問題になるのである。

 

『ファクトフルネス』には、直線本能という、現実は直線的に変化するとの思い込みは間違いだと指摘されている箇所がある。それなら、直線的に未来が良くなると思い込むのは間違いであり、『ファクトフルネス』にある通り、ほとんどの人がネガティブなら、未来を直線的に良くなるとは予測しないことは何も間違いではない(*‘ω‘ *)

 

『ファクトフルネス』には、人が何故ネガティブな思い込みを捨てきれないのか?は説明されていない。

私は、『江戸時代よりいい暮らしができていたとしても、昨日より今日、今日より未来がいい暮らしできることは、必ずしも約束されていないので、その不安感から、ネガティブな思いを抱く』と思っている。

 

例えば、今日住宅ローンを組んだ人が明日解雇されるとしたら、その人に、貴方は江戸時代よりいい暮らしをしてますよ、江戸時代なら職を失ったらこういうことがあった。でも、ローンは破産すればいいし、生活保護も受けられる…と言ったところで、その人は江戸時代の人と比べて自分を幸せと思うだろうか。思わないと思う。

その人の描いた未来は、安定した雇用を得て、ローンを払いきり、子供を育てて、賑やかな老後をそのローン破産した家で過ごすこと。定年退職して退職金と年金を貰うこと。破産とクビの為に、家族と離散して、生活保護を受け、寂しく死ぬことではない(*‘ω‘ *)

 

もちろん、江戸時代に比べたら社会保障もあるから餓死の心配はないし、同時に、また社会復帰するチャンスも残されているだろう。しかし、それはもう、最初に描いた順風満帆な人生の先ではないのである。そういう人に、社会や世界は良くなってますよ^^と言ったところで、それをポジティブに受け入れられるだろうか。

 

隣人の失業の話を聞くと心配になる。失業率が10年前と比べて下がっていても、だ。

失業についてなら、100人中3人しか失業しないという事実を叶えた世界の実情は個人には関係ない。自分が失業しないか?が重要なのだ(*‘ω‘ *)

 

そして、世界が良くなるとそれだけ世界の粗にも目が行く。失業率を3%にできたからと言って、質のいい仕事、自分が夢見た仕事、それに就けない未来があったら、その人に、貴方は10年前より幸せです…と言うのだろうか。

 

人は、江戸時代や中世ヨーロッパと比べていい暮らしができているか?は気にしない。当時生きていなかったからだ。子供の頃の夢が叶っているか?今日は昨日よりマシか?今日見た夢は未来に希望を残すか?それを、生活の良し悪しの基準と見るのである(*‘ω‘ *)

 

アフリカの発展途上国に生きる人が、先進国並みの暮らしをできるようになることよりも、先進国に住む我々は、ハリウッドの近未来映画みたいな暮らしが自分にできるか?の方が重要なのである。思いやりがない言い方かもしれないが。

それを言うなら、『ファクトフルネス』の著者も、先進国に生きる人の痛みに無関心と感じた。

言っていることは概ね正しいとも感じた。しかし、何故ネガティブなのか?それは不安のない幸せな世界ではないからである…という動かぬ事実から目を閉じているようにも感じられた。

 

全て綺麗ごとなのである。この本の内容を未来を失った先進国の若者に言ってやって欲しい。貴方は、一生先進国の富裕層みたいな暮らしはできないかも知れない。貧困層だからね。でも、その暮らしは江戸時代の人が夢見たものだ…と。