まだ最後までは配信されていない(1月24日)なので、プレイしていない人は、ネタバレを含むので、読まないように(*‘ω‘ *)
先日、ついに、ツイステ5章後編1までプレイが終わった。
ツイステは個人的に、オクタヴィネル編が一番好きだが、ポムフィオーレ編も良かった。
しかし、ポムフィオーレならより前編の方が良かったと思う。
ヴィルとエペルが衝突しながら、エペルが個性を尊重する様になっていく様子はとても良かった。
ポムフィオーレ編は、モデルは白雪姫。
白雪姫は、私が一番好きな童話だ。『雪の様に白い肌、黒檀の様に黒い髪、血の様に赤い唇』の組み合わせは、文章を読んだだけで、本当に綺麗だと思えて、引き込まれる。
この章の一種の主題は、絶対的な美しさ(相対評価)か、相対的な美しさ(絶対評価)かと言うものだと思う。
最後に、ヴィルの回想で出てくるのだが、絶対的な美しさがないと、舞台などで主役になれないなどの葛藤が常にあるのかも知れない。
以前Twitterで見た投稿、『生きているだけで満点という自己肯定感を褒める投稿定期的にあるが、容姿も悪くコミュ力もなく学歴も地位も金もない、実家も太くない、そんな人間を助けたい人はいるのだろうかという問題が常にある。』というもの。
私のこの投稿に対する思いは、全文同意であり、何も持たぬ人間とは関わりたくないし、そう言う人間になって、誰にも認められず生きていく為の術に過ぎないなら、自己肯定感なんてクソだと思う…というものだ。
この辺の葛藤を表現して一種の答えを出そうとしたのが、5章だろう。
ツイステは世界観がオクタヴィネルやポムフィオーレは進んでいて、スカラビアやサバナクローは少し前時代的な雰囲気があるという特徴もある。
その意味で、ヴィルの世界は、スーパーモデルなどが活躍する世界がモデルかも知れない。
ヴィルは、『可愛らしさも、強さも、共にパワー』と言い、可愛いことにコンプレックスを抱くエペルを諭そうとする。
エペルの出した答えは一旦置いておいて、個人的には、ジェンダーと言う面から見ると、エペルはヴィルよりも新しいタイプに見えた。
女性らしさ男性らしさを生まれたままの性別で固定したいという田舎生まれのエペルは古く感じるかもしれないが、エペルの容姿は凄く可愛いのだ。
私は、ジェンダー規範は実際の性別よりも見た目にサヤ寄せすると思っている。その意味では、男性でありながら可愛い容姿のエペルは女性らしさや上品さを、周りから要求されやすいはずだ。
そんな環境に高校生まで身を置きながら、それに逆らい男らしくなりたいと思う、人は見た目じゃないと考える。これも一種の新しい考え方ではないだろうか。
それに対して、ヴィルの考えは、見た目の美しさも力と見なし、元から持っている良いものを磨いていこうというもの。だから、エペルには上品な振る舞いを要求するし、フリルのついた襟のシャツを義務付け、基礎化粧品を押し付ける。
ヴィル、エペルのお姉さんやお母さんみたい…と思ってしまった(*‘ω‘ *)
ヴィルのこの態度は、少し厳しいようにも見えるが、エペルを思う愛を凄く感じる。
エペルは、リンゴ農園の子供なのだが、そこで作ったリンゴジュースをヴィルがマジカメ(インスタの様な物)にアップした結果、それが凄く売れて、田舎の両親が凄く喜んだのを知って、美しさの力を知る。
ところで、そのリンゴジュースが売れたことを知るのは、デュースという学友と一緒にエペルが学校を抜けだした先での出来事だ。
私は、カップリングの攻めのスペックが僅かに受けより高いという、日本のBLの選好が苦手だったりする。とにかく、対等がいい。男女のカップルでも、男性が所得が高く女性が美しく男性を立てつつ我儘を聞いてもらうというステレオタイプが苦手だ。これも対等がいい。しかし、日本みたいなジェンダーギャップ指数の高い国では、この思想は理解されにくい。
だから、ついついBLを見て、同性ならありでは?と対等なカップルを探してしまう。
エペルとデュースはお互いに不甲斐なさについて悩みつつ、お互いがお互いを元気づけて思いやり、それで共にこの5章で成長していく。この対等感が、凄くいい。
しかし、Twitter見ていても、エース×デュースは結構あるが、デュース×エペルはあまりない。
そして、私はリバOKな腐女子なので、どちらが攻めで受けとかもはっきりさせないタイプなので、その点でも供給がまるでない。
話は逸れたが、美しさも力だから、エペルは幸いにも見目麗しい見た目に生まれてきたのだから、それを精一杯活用しなさいとのヴィルの教えを始めて受け入れる。
しかし、ここでヴィルが教えたのは、美しさが一番強い武器と言うことではないと思う。
エペルは、男性らしさを絶対的な基準として相対評価で自分の魅力を測っていた。
ヴィルはそれに対して、可愛い見た目という中々持たない強みを個性として、絶対評価の中に打ち立てるべきだと言っていたのだ。
それなのに、ネージュというライバルの登場と共に、それが一番できていなかったのがヴィルだと判明するのが5章だ。
ヴィルは、小さい頃から美しく整い過ぎていた。その為親しみはなかった。だから、舞台でもドラマでも映画でも主人公になることはなく、主人公の敵役やライバルに抜擢されることばかりだった。
本人には、これがコンプレックスだったのだ。それに対して、常に主役になりやすいネージュ。
私個人の感覚では、親しみやすさなんて、それで金稼げてもクソだと思っている(*‘ω‘ *)
ただし、今はこの話はいい(*‘ω‘ *)
そして、文化祭のイベントでネージュに毒を盛ろうとするヴィル。
しかし、その自分のやった行為の愚かしさと醜さにショックを受けて、オーバーブロットしてしまう。
もっとも、その前から、主役が絶対無理で、自分が世界で一番検索件数が多いわけではない(鏡が一番美しいって言ってくれない)ことのストレスが蓄積していたのだが。
エペルに個性が大事と言いつつ、自分のライバル役をやれば誰よりもカッコよく演じることができるということを、尊べなかったというのが、5章のヴィルだ。
5章の後編2でヴィルがどういう成長を見せるか分からないが、ヴィルを倒したのは、デュースのユニーク魔法(個性魔法)だった。
5章の見どころは、学友や自分の見た目にコンプレックスを抱えているように見えるデュースやエペルが成長して、自分の個性を強みとしていく過程だと思う。
現実世界では、個性でも役に立つ個性と役に立たない個性がある。
ヴィルの個性も、主役に抜擢される為には役に立たない個性だ。5章の評価は難しい。
貴方は、『与えられた場所で輝きなさい』を受け入れられるだろうか。そう言われても、見た目によらず男らしくなりたいと言ったエペルや、馬鹿なのに器用になりたいと言うデュースの様に、何か、自分が与えられた役割ではないが、本当に憧れる何かになりたいと思うものではないだろうか。
ヴィルも主役になりたかったのだ。
しかし、主役になりやすいネージュは、ヴィルがオーバーブロットしたトラブルの中、ジャミルに催眠をかけられ、外で歌いながら踊ることしかできなかった。
白雪姫では、白雪姫をいじめた継母が、最後白雪姫の結婚式で熱せられた鉄の靴を履いて死ぬまで踊る。
この部分は、この逆転に感じた。
実際に役に立ったのは、悪役たち。
資本主義の世の中、要求された役割を果たせないと糧が稼げない。
主役になりたいとヴィルが努力して親しみやすさを身に着けたら、ヴィルの強みはなくなり、今以上に鏡には美しいと言ってもらえない魔女になるだろう。
自分の人生は選べるようで選べない。そういう苦しさを、この5章で感じた(*‘ω‘ *)