1月は鬼滅の刃の再履修をしている。一回目を読んでから1年以上経っているが、1年前より今の方が面白いし、たまに目が潤む。
思想やフェミニズム等の観点は別としても、作品として、娯楽としては、本当によくできていて、面白い作品だと思う。
作者によって、何をテーマにするかは違うが、鬼滅は劣等感などをテーマにしている一面もあるのかなと思いながら、獪岳や黒死牟のあたりを読んでいた。
腱鞘炎はまだ完全には治ってないが、書きだめしておかないと副業もトレードも共に忙しくなったらブログを投稿できなくなるので、今の内に書いておこう。
昨日は、黒死牟と柱たちの戦いの部分と、巌勝の過去についての部分を読んでいた。
まず、無一郎がまだ14歳なのに死ななければならなかったことに少し涙が出そうになってしまった。
それはおいといて、黒死牟…基本的に猗窩座の場合と違い、過去のことなどフォローがあまり入らない。堕姫や妓夫太郎や猗窩座は過去を思うと同情できる描写があったのに。
獪岳の時も思ったのだが、この作者は自身のコンプレックスなど、本来は自分の脳内で解決すべき問題の為に鬼になってしまったような者には厳しいのかも知れない。
無惨も、自分を診てくれていた医者を信頼できず殺してしまった過去があり、最後まで読んでも、そこまでのフォローや炭治郎からの同情も入らない…。
個人的に、童磨の場合と違い、自分とは違い過ぎるキャラの為、黒死牟は今一共感はできなかった。
黒死牟の中では、剣術を極めることよりも、弟に勝つことが、弟よりも優れていると自分を思えるようになることが、より重要だったのだろうなと思った。
しかし、思うのだ。
人間は、『自分より劣っていて欲しい』『こういう人間が恵まれていて欲しくない』などと思う相手が、実は無敵だったと分かった時、一番居心地が悪くなり、不快に感じるのではないだろうか。
その根底は、相手を侮った自分の失敗を恥じる気持ちにあるように思う。
私も一見すると優れているタイプではなく、共感されるタイプではないので、縁壱が兄に向けられた様な憎悪にさらされることが多くある。
そして、気づいたのだ。黒死牟は確かに共感できるキャラではないが、それ以上に縁壱に共感できないと。
ハッキリ言って、間違った道に進んだかもしれないが、弟に嫉妬してしまい、そういう自分を無意識に恥じてしまい、そして、剣術を極めたくても、それに伴って澄んだ心になることはなく、妻子に恵まれたのに、家も捨ててしまうような、そして、結局自分には弟に勝つ為に剣術を極める時間もないと思い、無惨の誘いに乗って鬼になる様な…そんな黒死牟の方が弟の縁壱より人間らしいと思ってしまうのだ。
あの作品は、鬼をどういうものとして書いているだろうか。
柱に比べて、鬼殺隊側に比べて、鬼の方を心を醜く書いている傾向はある。
猗窩座の場合にしても、結局は自制が利かず、人を沢山殺してしまい、間違い続けて生きてしまったと。
堕姫や妓夫太郎たちにしても、恵まれない環境があっても与えて生きることもできたかもしれないが、自ら奪う道を選んでしまったと。
でも、人間って綺麗なものだろうか。
私は、人間って複雑な物だと思う。
黒死牟には、人間時代に自分が跡目なのだから、弟よりも優れていないといけないと言うプレッシャーもあったのかも知れない。その中で、完全無欠で、負い目もない弟を見ると、ざわつくものもあったのかも知れない。
これって、人間らしい特徴ではないかと、私は思ったのだ。
どっちも共感できる相手ではないし、私自身は、さっきも書いた通り、見た目や雰囲気、現実をありのままに告げる性格などから、共感されず、しかし、恵まれている一面があるので、縁壱の様な立場になることが、凄く多い。
でも、立場が似ていたかも知れない縁壱には一切共感できなかったし、理解もできなかった。
縁壱の無邪気さが巌勝を追い詰めてしまったのかも知れない。
しかし、この作品には、炭治朗が『辛くても毎日前に進んでいくしかない。生きていくしかない。』というシーンがあり、同じく、無惨が『日銭を稼いで毎日を生きたらどうだ』というシーンがある。
この作者は、コンプレックスや受け入れられない現実があっても、毎日を誠実に、コツコツと生きるのが正しいし、それしかできないし、そうしないといけないと思っている節があると感じる。
そして、この生き方は禅などに通じるし、トレードにも通じるし、剣術にも通じるのだ。
その時の自分にできることを精一杯して、一歩一歩生きていく。意外に感じられるかもしれないが、これが最強へ到達する唯一の道だったりする。ローマは一日にしてならずだが、その通り、何かを極めるには、一日ではならない。
何か、その日、その自分に満足できない者を鬼にする傾向のあるこの作品。
しかし、その現実に満足できず、受け入れられないからと変えてきた人達のお陰で、今、私たちは選挙権を手にして、自由・平等・博愛の恩恵の下生きている。
そして、鬼たちも鬼にならず、その時の自分の現実を受け入れ、その中で努力していれば良かった、間違ったのは仕方ないけど、地獄に落ちるのも仕方がない、という描き方がされる反面、鬼殺隊たちの打倒無惨の、復讐の念は正しいものと描く。
少し違和感を感じることがある。
私が鬼推しだからだろうか。
この作品は、最後、首を切られても再生した黒死牟の、刀に映った姿を、醜いと形容するし、最後の無惨との決戦で毒で見た目が変わってしまった炭治郎のことを、鬼と形容するシーンがある。
見た目にも、一定のこだわりのある作品に感じられる。
ただ、その中で、悪である鬼が醜く、強ければそれなりに醜く、自分の力を切実に求めたら醜く、受け入れられない現実の中で努力して、日々を大事にして生きれば美しい、それが人間だ、その様に描かれている作法には、少し違和感を感じる。
蓄財はキリスト教で地獄に落ちる。
私は、金の亡者で、徹底してトレードの技術で最強の力が欲しいと願う。
その意味では、鬼的だ。
自分勝手な生き方かも知れないが、鬼を悪として描いてないと言われるこの作品の中に、鬼的な生き方を醜く描く一本の筋みたいなものを感じて、それが少し残念になってしまった。
結局は、誰に共感するか?の話なのだろうが。
そして、縁壱に落ち度がなくても、嫌われた理由も分からなかった縁壱。
そんな人間が完全無欠なはずもないと私は思う。結局、そこが頑固に見えてしまった。